今から20年近く前。当園が預かり保育を始めた頃、「幼稚園が保育園みたいなことをするなんて…」とどちらかというと異端視される時代でした。
これは幼稚園は教育をするところ、保育園は保育に欠けるかわいそうな子を預かるところという思い込みによるものもあります。また崩れかけていたとはいえ子どもは母親が手近に置いて手塩にかけて育てるものだといういわゆる「3才児神話」が根強かったからでもあります。
DINKSというあえて子どもを作らない夫婦像が新しいライフスタイルとしてもてはやされた時代もありました。
この時代はある意味では様々な子育てのあり方が許容され併存した時代でもあります。
時代が下って現在では子どもは施設に預けて母親も男性と同じように社会に出て働くべきだという単一の価値観に収斂されているようにも見えます。
リベラルの側からは主としてフェミニズムの観点から、保守の側からは主として経済的な理由によってこの方向は推奨されています。
左右双方から挟撃されて肩身の狭い思いをしている専業主婦の方も少なくはないと思います。
このあり方はある種の科学によって推奨する人もいます。
原始時代を彷彿とさせる狩猟採集生活をしている人々の生活から、子育ては母親だけではなく親族や村の主として女性たちが担うものであり、それが人間の本来のあり方だというものです。
現在の狩猟採集生活者はそもそも原始人ではない。幾度もの他の文化や文明との接触によって彼ら自身激しく変化しているのだという根源的な問題はさておいても、狩猟採集生活者の子育てと文明社会の保育園に預ける子育てと同じものでしょうか。
狩猟採集生活者の子育ては親族やよく見知っている他人が子育てに参加する、そして子ども一人に対して多数で子育てをすることを特色とします。保育園は赤の他人が複数の子どもを長時間預かることを特徴とします。
善し悪しを申し上げているのではありません。同じものではないということを申し上げています。
もちろん子育ては母親だけの責任に帰するものではないという点には私も激しく同意します。
仕事をすことに価値観を持ち、働きたい女性もいます。また何らかの事情で働かざるを得ない女性もいます。また、子育てが苦痛でなるべく長い時間保育施設に預けたい女性もいます。
価値観は多様ですのでそれらを否定するつもりはありません。
でも同じように自分で子育てをしたいという女性(男性でも良いのですが)の立場に立てばどうでしょう。
子育ては楽しみだからその楽しみを奪われたくないという考えもあるでしょう。子育ては子どもの成長を実感できてこれほど楽しいことはないということには私も同意します。
子どもの将来を見据えて、そのためにサポートを行いたい。それは幼児期の間はという人もいれば、中学受験まで、高校受験まで、あるいは楽器やスポーツについて、サポートが必要な時期までという人もいるでしょう。
そのような考えが間違っているとは私には思えません。
話は変わりますがアクティブ・ラーニングといって、知識を獲得する(悪くいえば詰め込む)よりも自ら考える力を重視する考えです。
今はその方向に向かって幼児教育から推進され、その考え方には当園としても賛同しています。
そしてその方向は大学受験にまで拡大されるそうです。
欧米の大学は論文やボランティアの実績などにより評価され合否が判定されます。ボランティアも評価の高いボランティアとそうでないものがあるそうです。論文も勘所というものがあるので必ずしも考える力、自ら生み出す力を評価しているわけではありませんが、それでもこのようなテストでは採点者の価値観によってどうしても評価は分かれます。
公正公平というのはこのようなテストでは不可能です。
そうするとどうしても余分目に合格者を出し、学業を続ける間に選抜する、つまり脱落させるしかなくなります。
そのようなことが日本の社会で本当に可能でしょうか。
以上、幼稚園の人間としてのもやもやとした思いをまとまりもつかないまま書き記しました。
意味不明でしたら申し訳ありません。